空飛ぶ鉄人!(西村大志さん 長崎西高61回生-2009年卒)

長崎西高のOBたちを紹介するメディア、WOWへようこそ!今回は61回生の西村大志(にしむら・ひろし)さんにお話をうかがいました。

学生時代のあだ名は「鉄人」だったという西村さん。学生時代の話や、パイロットとしてデビューするまでの道のり、これからの夢など、たくさんお話を聞かせてくれました。

西村大志(にしむら・ひろし)さん61回生のプロフィール

出身中学:梅ヶ崎中学校

部活動:バスケ部

大阪大学大学院工学系研究科卒

新卒で日本航空株式会社(JAL)に入社。パイロット(副操縦士)として勤務中

バスケだらけの3年間

――はじめまして、今日はよろしくお願いいたします!

(西村さん・以下敬称略)よろしくお願いします!

――早速ですが、まずは西高に入学するまでのことを教えてください。

(西村)はい。中学校は、梅ヶ崎中学校でした。グラバー園の近くですね。小学校は北大浦小学校だったのですが、もう廃校になってしまいました。中学校までは徒歩30秒。毎朝ギリギリに家を飛び出してましたね。中学校からバスケをはじめたのですが、駅伝部にもスカウトされて。なぜかバスケと駅伝、両方の部長をやっていました(笑)

――駅伝とバスケ!すごいですね!西高をどうして選んだんでしょうか?

(西村)バスケですね。中学生の頃に西高の試合を観て、「ココに行きたい!」と。選抜に選ばれたりもしていたので、それで西高から声をかけてくれて、西高には推薦で入りました。

――西高のバスケ部といえば、Bリーグ、アルバルク東京の田中大貴さんもいますね。やっぱりバスケ部は忙しかったですか?

(西村)はい、田中さんはひとつ下の学年になります。部活はやっぱり忙しかったですね、西高の3年間は本当にバスケ漬けという生活でした。朝練もあったので毎日七時半には学校にいて、夜の練習も七時まで。短い時間で集中して練習する方針だったので、練習ははっきり言って地獄でした(笑)
でもおかげさまで高2、高3の時は全国大会にも出場できて、高3では全国ベスト16までいけたので、よかったです。

――部活はインターハイまでですか?

(西村)そうですね。例年主力はウィンターカップまで残ることもあるのですが、家庭の事情もあり浪人はできないなと思っていたので、私はインターハイまでと決めていました。

――バスケ漬けの生活だと、受験勉強も大変だったのではないでしょうか?

(西村)大変でしたね。でも先生にすごく恵まれたというか、宿題や授業だけはしっかり取り組んでいたので、なんとかなりました。ただインターハイが終わるのが8月だったので、先に受験モードに入っていた同級生たちからはやっぱり取り残された感じでしたね。世の中にどんな仕事があるかも知りませんでしたし、自分が何が好きかもわかりませんでした。

――そうですよね。高3の時点で明確な目標がある人って、少ないと思います。進路はどう考えて決めたんでしょうか?

(西村)はい。漠然とオフィスワーカーは自分には合わないのではないかと思っていました。現場で働いて活躍するような仕事がしたいなと思いました。スポーツ選手とかも考えたんですが、全国大会の舞台も肌で感じて、自分はプロスポーツ選手としてはこの先厳しいかなと。

現場で働ける仕事で、給料も高い仕事、何か無いかなと探して見つけたのがパイロットでした。それほどよくわからないけれど、まずはここを目指してみようと。そのぐらいのきっかけですね。

パイロットになるための方法は森山さんの記事でも詳しく紹介してくれていますが、自分は経済的な事情もあって、お金や時間をかける方法は難しいと思いました。そうすると、新卒の自社養成パイロットかなと。航空会社の自社養成パイロットは4年生大学を卒業していれば誰でも応募できます。それなら自分が目指せる中でなるべくいい大学に行って、機械系を学んでいれば多少有利にはなるだろうと考えました。それで大阪大学の工学部を第一志望にして、だめだったら防衛大に行こうと決めました。とにかく早くスパッと目標を決めて、勉強に集中しようという感じでしたね。

学生時代のニックネームは、「鉄人」

――パイロットは「小さい頃から憧れていて」という方も多いイメージですが、また少し違うんですね。学生時代はどうでしたか?

(西村)はい。無事に現役で大阪大学に合格することができました。学部時代も忙しかったですね。奨学金を満額借りて、バイト代で学費も全部自分で賄うことにしていました。だから部活には入る気がなかったのですが、「1回見に来てよ」と言われて見に行ったら、けっこうレベルも高くて。自分も受験でしばらくバスケをしていなかったので、やったらやっぱり楽しかったというのもあって、結局バスケ部に入りました。

――それはすごい!かなり忙しかったのではないですか?

(西村)大変でしたね。平日は毎日9時から17時頃まで講義や実験がありました。その後は週3回、20時まで部活。そのあとは22時頃まで自主練です。22時〜夜中の2時までは週6でマクドナルドでアルバイトをしていました。部活がない日は、夕方家庭教師のアルバイトです。それで毎日朝8時には起きるという生活です。

――ちょっと私からしたら考えられません・・・

(西村)友だちからは「鉄人」と呼ばれていましたね(笑)土曜日は午後から部活で、夜はまたマクドナルドのバイトです。日曜も部活がない日は家庭教師をやったりしていました。3回生になると少し貯金もできてきたので、アルバイトを半分くらいに減らして、最後の大会に向けて部活を頑張りましたね。パイロットになるには身体検査もあるので、そのための体作りにもなりました。

――自分の学生時代を振り返って恥ずかしくなります(笑)就職活動はどうでしたか?

(西村)はい。学部の時に全日空を受けたのですが、そのときはダメでしたね。諦めきれなかったし、就活をちゃんとやれてないなという思いもあったので、大学院に進みました。今度はいろんな業種を受けてみようと思って就活もしたのですが、やはりパイロットの夢をあきらめきれず・・。ちょうど日本航空が新卒採用を再開したタイミングだったので受けてみたら、内定をいただくことができました。

鉄人、空を飛ぶ!

――とても充実した学生生活だったんですね。現在は副操縦士ということですが、入社してからキャリアを教えていただけますか?

(西村)そうですね、頑張りました(笑)入社してからは、まず1年半、研修期間があります。空港職員や予約センターなど、現場の仕事を1年半学びます。それから訓練部に入ります。

訓練部に入ってからは、まず3ヶ月は座学です。気象や法律、飛行機のシステムについての基礎知識などを学びます。それが終わったらいよいよ飛行訓練です。アリゾナ州のフェニックスの訓練場で、1年4ヶ月ほど、実機で飛行機の操縦を学びます。

――訓練はアメリカなんですね!

(西村)そうなんです。飛行機の離発着にはやはりお金がかかるので、アメリカの方がその料金が安いという事情もあって、アメリカの会社に委託するという形です。まずはプロペラ機からはじめて、基本的な離発着の技術を学んでいきます。2ヶ月ごとに到達度試験のようなものがあって、同じ試験に2回不合格になってしまうと、そこで訓練は終了。帰国して配属変更となり、パイロットにはなれません。

――え!それは厳しいですね!

(西村)厳しいですよね。しかも実際に飛行機に乗って飛べる機会は限られますし、その都度気象条件が違って学べる技術も違うので、同期10人でフライトの際に教わったことを共有しあって、全員でなんとか乗り切りました。単発機からはじめて、次は双発機。ジャンボジェットと同じようにエンジンが2つ付いている飛行機ですね。そこで片方のエンジンが停止してしまった時の操縦の方法なども学びます。

――就職してからも、勉強が続くんですね。

(西村)はい、勉強の連続ですね。帰国後2〜3ヶ月で国家試験がはじまるので、帰国してからも勉強、勉強の日々です。パイロットとしての国家資格を取得した後も、社内の試験に通らないと操縦士にはなれません。それをすべてパスして、操縦士としてデビューしたのが2019年の8月になります。2015年に入社したので、そこまで約4年半ですね。ちなみに、パイロットといえば年収も高いイメージがあると思いますが、訓練生のうちは、給料も普通です。操縦士としてデビューすると給料も変わりますし、時間にも少し余裕ができます。

――責任ある仕事ですし、やっぱりカッコいいですね。パイロットの暮らしやキャリアは部外者からすると全然イメージがつかない部分があるのですが、どういう感じになるんでしょうか?

(西村)まず暮らしについてですが、日本航空の場合、基本的に4日勤務して2日休むというサイクルです。羽田空港か成田空港が拠点となるため東京に住んでいる方が多いですが、中には大阪や福岡など地方に居住されている方もいます。

旅客機の免許は機体ごとに取得する必要があるため、会社からの辞令が降りたら、新しい機体の訓練も必要になります。今はエアバスのA350という機体で勤務しています。

また、これから私は機長に昇格するための試験を控えています。実はこの試験がパイロット人生で最も厳しい試験だと言われているんです。機長になったら、フライトの全責任を負う立場なので、一切言い訳ができません。日々研鑽を積んで技術や知識を高めていく必要があります。普段の乗務が、訓練の場ですね。

夢を持つって、難しい

――聞けば聞くほど、厳しい世界なんですね。そのおかげで飛行機に安心して乗れていると思うとありがたいです。

(西村)はい、パイロットは一生知識と技術を磨き続ける仕事です。私もパイロットになっていろんなことを学びました。乗客からすると毎回変わりないようなフライトに思えるかもしれませんが、裏では実は毎回いろんなことが起こっています。それを、パイロットだけじゃなくその他の乗員、管制官、空港のスタッフ、予約センターのスタッフ、などなど多くの人がプロとしての仕事をして、初めて安全なフライトが実現できるんです。私達乗務員をリレーのアンカーに例えることもあります。責任ある仕事で、やりがいを感じますね。

――ありがとうございます。最後に、現役の高校生たちに向けてなにかメッセージがあればお願いします!

(西村)そうですね・・・夢かな。夢を持たないといけない、と言われますが、夢を持つって難しいことだと思います。それ自体は大事なことだとは思いますが、夢って、点で想像しちゃうことが多いと思うんですよね。何かを達成した瞬間というか。それだと、夢がかなった瞬間、もしくはかなわかった瞬間、終わってしまうと思うんです。

でも夢が叶わなかったから無駄だったかというとそんなことはなくて。夢がダメだったからだめ、とかではなく、そこへ向かうプロセスそのものが、人生なんじゃないかなと。夢にむけて走っている今その瞬間こそが人生で、充実していると思えるといいのかなと思います。

もし夢がかなったとしても、その瞬間だけを目標にしていたら、燃え尽きてしまうと思うんですよね。目標へ向かうプロセス、そのトライアンドエラーを楽しむ感覚を持てるといいのではないでしょうか。

――たしかに。このインタビューをしていても、高校生の頃からは思ってもいなかったようなキャリアを歩んでいる方もいますが、皆さんそれぞれに楽しそうにお話してくれます。

(西村)山登りに似ているのかなと。登れば登るほど視野が広がるので、行き先は変わってもいい。前は見えなかった選択肢とかが、後から見える。ちょっと登ったら、視野が広がってまた新しい山が見えたりする。登り始めないとわからないことがある。そういうのが楽しいですよね。

たとえばマクドナルドのバイトも、母親から「最初から先生と呼ばれるような仕事するな、お客さんに頭下げる仕事をしろ」と言われて選んだんですが、思いがけずいろんなことを学びまし。店舗の「マネージャー」という役割をしていたのですが、マクドナルドは経営、教育方針などがきっちりできあがっていて、そのノウハウのかたまりなです。姫路で研修があって、経営論や人との接し方などを徹底的に学びました。目からウロコでしたね。経験としてはすごくよかったと思います。
ただしマクドナルドは社割りで安く食べれるので、そこは気をつけないとやばいです(笑)

学生生活、訓練期間、しんどかったけど、振り返ってみると、こうやって誰かに話せる経験ががあるのはいいことなのかな、という気もしますね。

――マクドナルドの社割りはやばいですね(笑)これからの展望などはなにかあるんでしょうか?

(西村)はい。実は先月子供が生まれて、藤沢に移住を決めたんです。長崎に近いような、海に近くてちょっとのびのびした環境で子育てがしたいと思って。西高にいた吉田先生という方が僕の叔父なですが、吉田先生のご長男が藤沢に住んでいて、色々と情報を教えてもらいました。長崎から遠い土地ですが、親戚が近くにいるのも安心できる理由ですね。

実は今の仕事を定年までやろうとは思ってないんです。自分は長崎が好きなので、なにか地元の発展に貢献できるような仕事をしたいなと思っています。

――そうなんですね。何かアイデアがあるんですか?

自分は仕事でいろんな町を見ているんですが、沖縄などは離島でもかなり発展していますよね。でも長崎はあまり離島にはスポットライトあたってませんし、乗継便も少ないです。航空会社の社員は飛行機に安く乗れるので旅行が好きな方も多いんですが、同僚たちに長崎を勧めても、あまり刺さらないというか。。長崎は観光地として文化的な要素が多いのが魅力ですが、沖縄のようにもう少しエンターテイメント性があってもいいのかなとも思います。

投資家というか・・そういった事業にチャレンジする人を応援したり、好きだなと思う人たちと一緒に仕事ができるといいなと思っています。会社の制度が変わって育児休暇なども取りやすくなりました。育休の段階によって国からお金が入る制度になったので、育休中も給与がそれほど下がらないんです。2人目が生まれたら、1年間育休をとって離島にいこうかと画策中です。

――素敵な計画ですね・・・!西高の後輩たちの中から、そういった事業にチャレンジする人が出てきたりしたら、すぐに連絡させてもらいます。本日はありがとうございました!

(西村)はい、ありがとうございました!

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