医師として、人と地域に寄り添う在宅ケア・在宅ホスピスを追い続けて(二ノ坂保喜さん 長崎西高21回生‐1969年卒)

地域に開かれたクリニックを拠点に人々を支える医師の二ノ坂保喜さん。在宅医療やホスピスという言葉がまだ知られていない時代から、その人らしい生き方を支える活動を開始し、 現代の「赤ひげ先生」として多くの共感を呼んでいます。しかし 二ノ坂さんの行く手には、かつて2つの歴史的出来事が立ちはだかりました。その出来事とはー

■こんな人に読んでほしい
 ・医学の道を志している
 ・在宅医療やホスピスに関心がある
 ・自分の信念を貫く生き方を知りたい
21回生 二ノ坂保喜さんのプロフィール
 ・出身中学:長崎大学学芸学部附属中学校
 ・西高での部活:地学部
 ・大学:長崎大学医学部
 ・職業:医師

弁護士を目指すも「東大紛争」の余波で、進路を変更。医師の道へ

ビートルズが来日、オールナイトニッポンの放送開始、川端康成のノーベル賞受賞、大学紛争が激化。「新・三種の神器(3C)」としてカラーテレビ(Color TV)、クーラー(Cooler)、自動車(Car)が一般家庭に浸透した高度経済成長期。
そんな1960年代後半が、二ノ坂保喜さんが長崎西高で過ごした時代です。団塊世代より少し後の世代ですが、当時の西高は1学年15クラスほどあり、生徒数はかなり多かったそう。
部活動は、「好きな女の子と同じ部活に入りたい」、という友人に付き合って地学部に入部。きっかけは単純でしたが、天文・地学・気象の世界はとても興味深く、野母崎で泊まりがけの天体観測をするなど、果てなく広がる空へ想いを馳せました。この時代はアポロ11号が月面着陸に成功し、宇宙開発の歴史が大きく動いた時代でもありました。
進学については、「日本の最高峰へ」と目標高く、東京大学法学部を目指していました。しかし弁護士になることを思い描いていた高校3年生の時、進路変更を余儀なくさせる事態が起こります。

時は学生運動のまっただ中。東大紛争の混乱により、東京大学は1969年度の入試の中止を決定してしまったのです。過去にも先にも、東京大学の入試が中止されたのは、この1回のみ。東大への進学を目指していた二ノ坂さんにとって想定外の出来事でした。
浪人するか、他の大学を受けるか。同じく東大を目指していた同級生と様々な選択を模索する中、二ノ坂さんは長崎大学の医学部へと進路変更を決断しました。「長崎大学の中で目指すなら一番高いところを」という想いと、親戚に医師が多かったことがその理由とのことです。

学生運動の余波を受ける形で、医師の道を進み始めたニノ坂さんは、卒業後、長崎大学病院第一外科へ入局。そこからさらに上を目指して白い巨塔へ・・・ではなく、むしろ大学の医局に縛られず、自分の思い描く医学の道を進み始めます。
大阪、山口、長崎、福岡など各地で医師として勤務し、救急医療や地域医療、僻地医療を経験しました。
長崎県平戸市の青洲会病院では開設から携わり、病院長も務めました。地域の人々が頼る大きな病院で様々な患者さんや家族と出会う中で、次第に「多くの人が病院のベッドで最後を迎える現実」に疑問を感じ始めたそうです。「家族のそばで、穏やかに最期を迎えることはできないのだろうか」。その思いが、後の在宅医療への転機となりました。

普賢岳の噴火で白紙に戻った病院建設。それでも前へ

1990年に出版された山崎章郎医師の著書『病院で死ぬということ』は、病院中心の医療の在り方が社会に問いかけられました。医療の発展の裏側で、治る見込みのない患者は病名を伏せられ、不安や絶望の中、病院で孤独な死を迎えていく…。延命至上主義的な医療現場の在り方に、各地で疑問の声が上がり始めていました。
二ノ坂さんも在宅での看取りを実現する医療を自らの手で形にしたいと考え、病院をつくることを想い描くように。これが後の「にのさかクリニック」開院につながります。当初、建設地は長崎県島原市を計画していました。

しかし1990年雲仙・普賢岳の噴火により、建築予定地が被災し、計画が白紙に。
それでも歩みを止めることなく、新しい建築地を探しながら福岡の病院に勤務し、その病院で在宅医療部を開設。さらに自分が想い描く地域医療を実践するために1996年、福岡市早良区に「にのさかクリニック」を開院します。

現代の「赤ひげ先生」のもとに集まった仲間とともに、地域に開かれた医療を

現在もクリニックを拠点に、『患者さんや家族が安心して家庭で過ごすことができるように』という思いのもと、外来診療から在宅ケア、看取りまでを行い、地域に開かれたクリニックとして様々な活動を行っています。木のぬくもりが漂うアットホームなクリニックには、二ノ坂さんの想いに共感した仲間が集まり、医師、看護師、ソーシャルワーカー、管理栄養士、理学療法士、言語聴覚士、薬剤師、事務スタッフなど、多職種が集い、チームで患者さんを支えています。

2014年には、日本医師会「赤ひげ大賞」を受賞。長年にわたる地道な活動が評価されました。コロナ禍で在宅医療は関心を集めたような兆しもありますが、2024年の統計では約67%以上が病院で亡くなっており、依然として高い割合を占めています。「家で最期を迎える」ことは、まだ実感としてはとらえきれないものがあります。在宅医療、訪問診療、ホスピス緩和ケアなど、国が政策を始めるずっと前にその必要性に目を向け、精力的に活動してきた二ノ坂さん。穏やかな語り口の奥には、揺るがない信念が感じられます。

障がい者支援、海外での活動、ボランティアの育成など、医療の枠を超えた活動へ

1996年、二ノ坂さんが45歳の時に開業したクリニックは今年(2026年)3月、30年を迎えます。この30年の間に、65歳以上の高齢者の割合は増え続け、2000年より国が進める介護保険、地域包括ケアシステムが整備されてきました。
まだ制度が何もないころから手探りで始めたこの30年を、二ノ坂さんは「長かった」と振り返ります。
クリニックの隣には、医療的ケアが必要な子どもから大人まで利用できる「地域生活ケアセンター小さなたね」を設立。障がい児から障がい者へ移行する際に支援が途切れる現実を、利用者の声から知ったことがきっかけです。
また海外支援にも力を注ぎ、現地の教育と医療を支援する「バングラデシュと手をつなぐ会」では、現地のNGOと対等なパートナーシップのもと、看護学校を開校するなど国境を越えた活動を続けています。
さらに「地域のクリニックは、医療の専門家の集まり。ぜひ活用してほしい」という想いから、ホスピスや在宅ケアの取り組みや日々の健康管理などの情報をまとめたクリニックの広報誌を毎月1000部ほど地域に配布、ボランティアの育成にも取り組んでいます。

現在は息子さんにクリニック引き継ぎ、自身は理事長として患者さんのケアや方針を決めるカンファレンス、外来など週3日ほどを担当。また、佐賀県唐津市で高齢者医療に取り組む訪問診療にも携わっているそうです。
昨年(2025年)二ノ坂さんは75歳(後期高齢者)となり、病気も経験したそう。全ての人は等しくいつかは看取られる側になりますが、「どんな最後をイメージしていますか」との問いには、「これが自分のことになると難しくてね」と静かに笑われました。その姿から、最期の迎え方にお手本はなく、人それぞれでよいのだと、改めて気づかされます。

大学受験は東大紛争により進路変更、病院開院は普賢岳噴火により予定地変更という、人生の節目で、自分ではどうにもならない出来事に二度も直面した二ノ坂さん。それでも自分にできることを、実直にやり続けたことで、多くの人々とともに新しい流れを生み出してきました。
二ノ坂保喜さんのこれまでの歩みは、緩和ケアやホスピスなどに関する多数の著書からも触れることができます。ここでは収まらない数々の興味深い取り組みがありますので、ぜひその足跡をたどってみてください。

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