好奇心の赴くままに ― 音楽・絵画・歴史をめぐる豊かな日々。鈴木伸一さん(30回生 1978年卒)

部活動を学校から地域クラブ活動にする「地域移行(地域展開)」 が進められている現在。学校の部活動が、いかに貴重な時間であったかと再認識させられます。今回ご紹介する鈴木伸一さんは、「吹奏楽部」を通して豊かな人生を育んだ人物です。

■こんな人に読んでほしい
 ・学校では部活に入ったほうがいい?
 ・音楽や美術に興味がある
 ・新しいことを始めたいけど、なかなかスタートが切れない
30回生 鈴木伸一さんプロフィール
 ・出身中学:淵中学校
 ・部活動:吹奏楽部
 ・大学(専攻学部):物理学 
 ・経歴: 富士通SE、人事部、日本フィル福岡公演実行委員会事務局IT担当

「遅刻坂」を登らず通った西高と、音楽との出会い

鈴木さんは、自宅から西高までは徒歩10分という環境で育ちました。

西高生の多くが思い出として語る「遅刻坂」ではなく、裏門から登校する少数派。「可愛い女の子と遅刻坂を『はあはあ』言いながら一緒に登りたかった」とちょっと悔やみます。

小中学校時代は勉強でも群を抜いていました。当時の総合選抜制度のもとでは、成績が良すぎると希望校へ進めない可能性もありました。そこで得意科目の数学をあえて七割程度の正答率に調整し、西高進学を確実にしたとか。一方で、幼い頃から芸術にも親しんでいました。長崎少年合唱団に所属し、油絵も学んでいます。

中学校ではバスケットボール部と美術部に所属。しかし1年時の担任教師は吹奏楽部の顧問で、クラスではいつも楽しそうな話題が飛び交っていました。その雰囲気に引かれ、1年の3学期に「心臓が悪くて……」ともごもご言いながらバスケットボール部をさくっと退部し、吹奏楽部へ転部します。

希望していた楽器はトランペット。しかし3学期から入部したため空きがなく、担当はホルンになりました。深く考えずホルンを受け入れましたが、のちに「あっちゃ」という経験をします。しかしそれは少し後の話。 仲間と一つの音楽を作り上げる喜び。その魅力にすっかり引き込まれた鈴木さんは、西高でも迷わず吹奏楽部の門を叩き、ホルンを吹き続けました。

西高の吹奏楽部を変えるべく奔走した高校生活

鈴木さんが入部した当時、西高吹奏楽部は、「自律」の精神が良くも悪くも影響したのか自由な空気に包まれていました。部室ではトランプに興じ、活動への参加も自由。顧問が顔を出すこともほとんどありません。

鈴木さんは1年生でありながら様々な改革を実行します。
部員の出欠を管理するために、かまぼこ板へ名前を書いた手作りの出席表を作成。入学式・卒業式・体育祭・文化祭の演奏曲を考え、練習計画を立案。他の高校がコンクールに向けて練習に励む中、西高吹奏楽部は出られる人数が集まらず活躍の場は校内にとどまりましたが、音楽を続けるためにできることを考え続けました。

高校3年生の時、吹奏楽部の指導経験を持つ教師が赴任してきました。鈴木さんは、 「顧問になってください」 と直談判しました。しかし、その先生は前任校でやり切ったという思いがあり、なかなか首を縦に振ってくれません。それでも鈴木さんは諦めませんでした。何度も足を運び続けた結果、ついに顧問を引き受けてもらうことに成功します。こうして吹奏楽部はようやく本格的な指導者を得ることができました。

鈴木さんのこの行動力には、後の人生を貫く特徴がすでに表れていました。「面白そうだ」と思ったことには迷わず飛び込み、「必要だ」と思ったことには自ら動く。その姿勢は、現在も変わることがありません。

JAZZとの衝撃的な出会い。ホルンからトランペットへ

同級生の多くが3年生の4月に部活を引退し受験勉強へ切り替える中、鈴木さんは夏になっても部活動を楽しんでいました。

ある日、長崎大学のJAZZサークルに所属する吹奏楽部OBが部室を訪れました。

「すごい音楽があるぜ」

初めて耳にしたJAZZは、それまで知っていたクラシックとは異なる世界でした。指揮者はおらず、自由で躍動感があり、演奏者の心と心のつながりがひとつの音楽をつくる。鈴木さんは一瞬で魅了されたといいます。

先輩は譜面も用意してくれていました。しかし鈴木さんの分だけありません。理由を聞くと、「JAZZにホルンはないよ」と。その一言が転機となりました。憧れのトランペットへ、ついに転向したのです。

大学選びも実に明快でした。条件は二つ。「教員免許が取れること」と「JAZZサークルがあること」。教員として吹奏楽部を指導したいという思いと、JAZZへの憧れを抱きながら東京へ進学しました。

実は高校時代にもすでに一度東京を訪れています。スタントマンを目指し「千葉真一の事務所に行く」という友人に付き合い、昼食のパン代を削って旅費をため一緒に東京へ。しかし訪れた場所に千葉真一の事務所は存在せず、急遽向かったピンク・レディーのコンサートにも間に合わず終了。結局何をしに行ったのか分からない旅だったそうですが、その無計画ささえ楽しそうに語る姿に、鈴木さんらしさが感じられます。

仕事、家族、そして再び音楽へ

大学ではJAZZサークルに没頭しました。入学祝いとして両親に買ってもらったトランペットは、後に盗難に遭ってしまいます。しかしアルバイトでお金を貯め、再び購入するなど、音楽への情熱は途切れません。大学1年生の時、西高野球部が甲子園へ出場した際には、トランペット持参で甲子園へ応援に駆け付けたそうです。

一方で、将来の進路は少しずつ変わっていきました。塾講師のアルバイトを経験したものの、教員という仕事に以前ほど魅力を感じなくなります。ちょうどその頃、日本はIT黎明期を迎えていました。

物理専攻だった鈴木さんのもとには大手企業からの求人が集まりました。教授から渡された数社のパンフレットを見比べ、「教育制度が整っていそう」という理由で富士通を選択します。

入社後一目ぼれした同期の女性と結婚。長男も誕生し、横浜で家族水入らずの暮らしが始まりました。福岡への転勤を機に福岡市の隣の糸島市に住まいを構え、システムエンジニアとして働きながら人材育成にも携わりました。

そして仕事が落ち着いた頃、再び音楽への思いが動き始めます。吹奏楽団への参加を皮切りに、さまざまなJAZZバンドやサークルを経験し、現在の活動の中心となる社会人ビッグバンドへたどり着きました。その出会いもまた、人との縁が運んできたものでした。人事担当として社員との対話を重ねる中で音楽の話題となり、理想としていたレベルの高いビッグバンドの情報が舞い込んだのです。鈴木さんは「点と点がつながった」と振り返ります。

また日本フィルハーモニー交響楽団の福岡公演実行委員会事務局IT担当を務めるなど、人々が音楽に親しめる機会を創出する取り組みにも参加しています。

やりたいことは、いつからでも始められる

現在の鈴木さんは、音楽だけでなく実に多彩な活動を続けています。

子どもの頃に親しんだ絵画への思いから鉛筆画を始め、コンテストで入賞。作品が主催の地域交流センターに飾られるなど新たな才能も花開きました。

地域の歴史を子どもたちへ伝えるボランティア活動にも参加しています。さらにタレント事務所に所属し、オーディションにも挑戦しているそうです。

興味を持ったことにはまず飛び込んでみる。そんな生き方を続けてきた鈴木さんですが、55歳のときに最愛の奥様を脳疾患で突然亡くすという深い悲しみも経験しました。その後しばらくは気持ちが沈む日々が続いたといいます。

それでも音楽があり、人とのつながりがあり、新しい挑戦がありました。

現在は60代後半。指先の動きや音への反応に年齢を感じることもあるそうですが、それを無理に否定することなく受け入れています。

そして今もなお、新しいことに挑戦し続けています。

吹奏楽部を立て直そうと奔走した行動力は、半世紀を経た今も変わりません。音楽に引かれ、絵を描き、人と出会い、興味の向くままに新しい世界へ踏み出していく。鈴木伸一さんの人生は、「やりたいことは何歳からでも始めようぜ」と、軽快なリズムで教えてくれているようです。

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