同窓会での企画をはじめ、人を楽しませ、感動させることに長けた山口一雄さん。長年の放送局勤務で培った技かと思いきや、その原点は西高にありました。遅刻癖を逆手にとった恩師の導きや、「くじ引き」に阻まれた就職活動を救った友人、「カズオさん」と呼ぶ子ども達など、山口さんの人生にはいつも人との「絆」があります。
■こんな人に読んでほしい ・高校の学びは、人生にどう活かされているのか知りたい ・放送局に興味がある ・職場以外でやりたいことを叶える方法を知りたい
24回生 山口一雄さんのプロフィール ・出身中学:野母崎中学校 ・西高での部活:新聞部 ・大学:九州大学法学部 ・職業:元放送局勤務、元筑紫女学園大学非常勤講師、広告代理店経営、 NPO法人副理事長
「自律」の精神のもと育まれた信頼関係、恩師との出会い
大阪万博で日本中が沸き立つ1970年、西高2年生だった山口さん。めったにない万博という機会を多くの生徒に経験させるため、1・2年生の修学旅行が組まれ、まず1年生、次に2年生が訪れる日程だったそうです。山口さんは先に行った1年生から情報を集めたことで、人一倍万博を楽しめたと言います。
この情報収集能力を育てたのが、「新聞部」での活動でした。企画から取材、広告営業まですべて部員が担当。広告営業では西高周辺の文房具店や鯛焼き屋さんへ、1枠300円ほどの広告費をお願いして回りました。ある日、学校に自販機を設置していたコカ・コーラの社員が広告掲載を希望して部室を訪れました。いつもはお願いする立場だったのが、逆にお願いされるという展開に一同びっくり。しかも一番大きな枠に広告を出したいとのこと。価格を聞かれ、部員であれこれ思考を巡らし「5000円」と恐る恐る提示すると、「安いね!」とあっさり即決。「2万円と言えばよかった」と後悔した経験は、交渉の面白さを知るきっかけとなりました。
ちなみに当時のコカ・コーラの広告は加山雄三だったそうです。
西高では山口さんが「人生を導かれた」と語る出会いがありました。2年生時の担任久間圭祐先生です。当時20代後半で、初めて担任を持ったという久間先生は、山口さんにとって、人間対人間で話せる存在だったそう。成績が中くらいだった山口さんを「ノビシロがある」と評価。久間先生に言われると、魔法にかかったように心と身体が動いたと言います。時には兄や友人のように恋愛指南をしてくれることも。そして山口さんも、独身の久間先生のため運動会のお弁当を母親に頼んでつくってもらうなど、深い絆が築かれていきました。
久間先生との数々のエピソードの一つに「遠足私服事件」があります。当時、「遠足は制服で参加」という慣例があり、そこに生徒が意見します。「汚れるし、制服だと動きづらい」。久間先生は「そうだなあ・・・」とつぶやいた後、「よし、私服でいいぞ」と。その代わり「たばこは吸わない、ジーパンはダメ」などルールを提示したそう。山口さん達は大喜びで、「先生に恥をかかせないために、ルールは絶対守ろう」と生徒間で結束。遠足当日他のクラスが制服で集まる中、山口さんのクラスだけ私服で遠足を満喫しました。
その後、久間先生は職員会議でたっぷり絞られ・・・。それでも生徒の前で「みんなルールを守ってくれてありがとう」と笑顔を見せたそう。生徒を信じ、先生を信じる。信頼関係の大切さは、山口さんの心に深く刻まれました。
西高の絆で運を引き寄せた就職活動。大橋巨泉に刺激され、放送業界へ
久間先生の魔法にかかった山口さんは、その後成績を伸ばし九州大学へ進学。当時流行していたTV番組「大橋巨泉の11PM」を見て番組制作に興味を持ち、放送局の就職を考えるようになりました。
その頃の日本はオイルショックの影響で、就職難の時代。長崎の放送局の募集はゼロ。福岡の放送局のわずかな募集枠に対し、九州大学では「機会均等」のもと、応募できる学生をなんと「くじ引き」で選ぶことに。山口さんはくじ引きに外れてしまいます。そこを救ったのが、西高時代からの友人で、一緒に九州大学へ進学した24回生の渡辺敏則さんです。「就職は長崎県庁に決まったから」と当たりくじを譲ってくれたそう。ここでも西高の絆に助けられました。その後の採用本試験は実力で突破し、念願の放送局へ就職。
山口さんが仕事で長崎県庁へ訪れた際は、必ず渡辺さんに手土産を渡し「今の俺があるのは君のおかげだ」と仰々しく伝えるのが、その後の2人の慣習となりました。
西高同窓会で花開いた制作魂。10年越しのリベンジで作られた伝説の映像
放送局では「ラジオの深夜放送で番組をつくりたい」と意気込んでいた山口さんですが、入社後ほどなくして、「営業職」で東京へ移動になります。話上手なことから、交渉術が見込まれたようです。山口さん曰く「たくさんしゃべるのは恥ずかしさを隠すため」とのこと。
しかし思い起こせば、西高時代、担任の久間先生は遅刻常習犯だった山口さんを何とかしようと一計を案じ、「遅刻の言い訳」をクラスメイト全員の前で述べさせていたそう。そこでみんなから「爆笑」を誘うトークを披露することで、人をひきつける話術を得たとか。久間先生の策略が、山口さんの才能を引き出してしまったようです。
東京には10年間赴任、福岡でも営業職を担当し、その後スポーツ番組のプロデューサー、ラジオ局の局次長へ。番組制作に携われないまま時は過ぎて行きました。
そんな山口さんの制作意欲の矛先になったのが、西高福岡同窓会でした。10年に一度の当番幹事が回ってきた年、奮起した山口さんは営業先のシーホークホテル&リゾート(現ヒルトン福岡シーホーク)に頼み込んで、結婚式用の会場を特別に同窓会の会場として使用させてもらったそうです。「みんなを感動で泣かせてやろう」と、49回生の声楽家永渕くにかさんの生歌と懐かしい昭和の映像をコラボした企画を発案。リハーサルで確かな手応えを感じ、いざ本番へ。放送業界のプロ監修の演出が、西高OBの頬を感動の涙がぬらす--のはずが、 久しぶりの再会に 酒が回ったOBたちは進行そっちのけで勝手に盛り上がり、予想を裏切る展開に。西高の「自律」の精神は、簡単には制御できないようです。
それでも10年後に再度巡ってきた当番幹事の同窓会では、さらにパワーアップした映像を制作。見事大成功を収めました。その映像は、今も語り継がれる伝説となっています。
「自律」の精神を子ども達へ。「信じる」ことが絆をつくる
現場主義を貫いた山口さんは、56歳で早期退職します。その後広告代理店経営、大学の非常勤講師を経験。現在はNPO法人の副理事長を務め、さらに福岡市の「放課後等の遊び場づくり事業」を通し子ども達の居場所づくりに携わっています。子ども達との関わりで山口さんが大切にしているのは、子ども達を信じ、見守ること。忍耐力と寛容力で、じっと待ってあげると、子ども達も大人を信じるようになるそうです。まさに西高の「自律」の精神です。
山口さん自身7人の子ども達を育て、長女の名前は西高校歌の歌詞に由来します。長女が誕生した日は、奇しくも西高が甲子園で、「工藤公康ノーヒットノーラン敗け」をした日。甲子園で聴けなかった西高の校歌を、娘の名前に託したそう。今では孫が22人。他にも山口さんを「カズオさん」と呼び親しむ子ども達がたくさんいます。
西高の「自律」の精神と、久間先生から学んだ信じることの大切さ。それが今も山口さんの人生を支え続けているようです。


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